『フィルターバブル』を読む
「フィルターバブル」とプライバシー
『フィルターバブル』の原書 THE FILTER BUBBLE — What the Internet Is Hiding from You
は Eli Pariser により2011年に発刊されたものだ。
この「2011年」というのがポイントで「WikiLeaks 以後」で「Snowden 以前」という絶妙な時点である。
このことが最も顕著に出てるのが Facebook や Twitter や Google といったサービス/企業の記述である。
Google はかつて「完全なプライバシーは存在しない」と公言し「Google はプライバシーに敵対的」と大きな批判を受けた企業である。 Facebook も極端な実名主義で度々批判に晒されている(Facebook については『フィルターバブル』の4章に詳しい解説がある)。
それが
などと言うようになるとは当時誰が想像しただろう。 もちろん Google や Facebook や Apple などがユーザのプライバシーに本当に配慮するようになったわけではない。 でも「我が社はユーザのプライバシーに配慮しています」と言うことはその企業にとってはメリットだ。 彼等は「Snowden 以後」においてユーザがセキュリティやプライバシーに敏感になったことを(政府機関に抗議することで)利用しているに過ぎない。
Google が最近
と言ったことは「フィルターバブル」とプライバシーの関係について新しい段階に入ったことを示唆する(人工知能やロボットについては『フィルターバブル』の7章に記述がある)。
「フィルターバブル」は閉じこもっているわけではない
THE FILTER BUBBLE
の邦訳版は井口耕二さんによって2012年に発刊された。
今回の『フィルターバブル』はこの邦訳版を改題し文庫本として再発刊したものである。
当時私が何でそれを読まなかったか考えるに,おそらく『閉じこもるインターネット』などというアレなタイトルに食指が動かなかったんだと思う。
yomoyomo さんによる『フィルターバブル』紹介記事を見て「そういや『閉じこもるインターネット』なんてアレな本があったなぁ」と何となく思い出した次第である1。
最初のあたりを読んでて早くも痛感したのは,『スパム[spam]:インターネットのダークサイド』は読んでおくべき,だったことだ。 「フィルターバブル」と「注目の搾取」には密接な関係がある気がする。
「フィルターバブル」のポイントを私なりにまとめると以下のような感じだろうか。
- ユーザによって制御できないフィルタリングは目的や運営主体にかかわらず全て「検閲」である。「フィルターバブル」は検閲の問題といえる
- 「フィルターバブル」は都合の悪いものを隠し,受け手にとって都合のよいまたは心地よいものだけを「連呼」する。「フィルターバブル」は「注目の搾取」の問題といえる
- 「フィルターバブル」は人の認知バイアスを利用し背景に擬態している。「フィルターバブル」は目に見えない壁であり手が届く範囲のほんのちょっと先にあるため存在することすら気付かない場合がある
- 「フィルターバブル」は「アーキテクチャ」によって駆動するため一見すると公正に見える。「フィルターバブル」について考えることは「アーキテクチャ」の本質的な問題を炙りだす
4つの規制
『フィルターバブル』の6章は個人的にゲンナリした。 これが冒頭に配置されてたらゴミ箱に放り込んでただろう。 しかし考えさせる部分は確かにある。
『フィルターバブル』には Lawrence Lessig の『CODE』からの引用が随所にある。 『CODE』では,いわゆる「4つの規制」を下敷きに理論を展開させている。 「4つの規制」とは「法」「規範」「市場」「アーキテクチャ」であり,それぞれが影響しあって社会環境を構成していると考えるわけだ。
21世紀に入って痛感することは「ソフトウェアはカネになる」ことだ。 それも「ちょっとした小遣い」ではなく莫大な富を生む。 Windows のようなプロプライエタリ・ソフトウェアだけではなく Linux のような FLOSS ですら「市場」の影響を免れない。
ここから導かれるのは「アーキテクチャは市場と癒着する」ことである。 「市場」だけではない。 「アーキテクチャ」は常に他の3規制と癒着する可能性がある。 ぶっちゃけ脆弱なのである。 コードを書いている人たちはそのことに気づいてないか意識的に耳を塞いでいる。
『フィルターバブル』の最終章では「フィルターバブル」を避けるために「法」「規範」「市場」の3規制を上手く利用することを提言している。 他にやりようがないからだろうが,しかしこれはおかしな話である。 なぜなら「フィルターバブル」はその3規制との癒着がもたらしているからだ。 まさに
である。
「アシスタント」という探査針
このことを如実に表してるのが Google が今後推し進めるであろう「人工知能」である。
『フィルターバブル』の7章を読んでからこの記事を見ると「ぞんぞがさばる」に違いない(笑)
個人的に「インテリジェントアシスタント」と聞いて連想するのは Greg Egan の DISTRESS
(『万物理論』)である。
この作品の中で情報探索ソフトの「シジフォス」をはじめ様々な「インテリジェントアシスタント」が登場する。
概ね「インテリジェントアシスタント」と聞いて連想するのはこういったものではないだろうか。
しかし Google が言う「インテリジェントアシスタント」は指し示しているものが恐らく異なる。
ユーザから見て「アシスタント」は VRM(Vendor Releationship Management; 企業関係管理)でなければならない。
そうでなければ「アシスタント」はただの広告媒体にすぎないからだ。
しかしその Vendor のひとつに過ぎない Google が「アシスタント」を VRM として設計するはずがないのだ。
ちなみに VRM は Doc Searls の The Intention Economy
(『インテンション・エコノミー』) に登場する概念である。
- yomoyomoの読書記録 - ドク・サールズ『インテンション・エコノミー 顧客が支配する経済』(翔泳社)
- 『インテンション・エコノミー』を読む — Baldanders.info
- 俺達がインターネットだ! — Baldanders.info
Facebook や Twitter のタイムラインにしろ Google の検索窓にしろ,彼等は単に結果を「表示」しているのではない。 むしろ彼等はユーザの反応を「監視」している。
19世紀に脳に直接電流を流して反応を見るという人体実験があったそうだが(本当かどうかは知らない), Facebook や Google がやっていることはそれと同じである。 「アシスタント」は言わば「探査針(probe)」であり Facebook や Google はその探査針を通じてユーザの反応を観察しているわけだ。 何のために? もちろん(株や広告の)出資者のために,である。 これがすなわち「アーキテクチャは市場と癒着する」なのだ。
「フィルターバブル」と反知性主義
『フィルターバブル』を読み進めるうちに連想するようになったのは,森本あんりさんの『反知性主義』である。 先ほどゲンナリしたと言った6章では特にこれが顕著だった。 表示される “Hello, World” を見て
とかキ◯ガイとしか思えない2。 でも『反知性主義』を読んでると,これこそが「アメリカ的」という感じがする。
実は『反知性主義』は半分くらいまで読んで絶賛積読中なのだが,なんとか GW 中に読了して感想文を書いてみたいものである3。
- フィルターバブル──インターネットが隠していること (ハヤカワ文庫NF)
- イーライ・パリサー (著), 井口耕二 (翻訳)
- 早川書房 2016-03-09
- 文庫
- 4150504598 (ASIN), 9784150504595 (EAN), 4150504598 (ISBN), 9784150504595 (ISBN)
- 評価
ネットにおいて私たちは自由ではなく,それと知らず「フィルターバブル」に捕らわれている。
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いやぁ,タイトルというか「モノに名前をつける」のってすごく大事ですよ。『閉じこもるインターネット』なんてタイトルを誰がつけたのか知らないけど(訳者じゃないんだろうな多分),こういうのって購買意欲に直結するんだから,もうちょっと考えましょうよ。 ↩︎
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知らない人のために一応解説しておくと, “Hello, World” は C 言語の教科書,通称「K&R」に出てくる最初のコードである。プログラマは新しい言語プラットフォームの動作確認の際に慣習的にこの “Hello, World” を表示するコードを書くことが多い。つまり「最初のテストケース」なのであり宗教的な意味はない。ちなみに GitHub には各言語の “Hello, World” を集めたリポジトリが存在する。 ↩︎