「老いに備える知的生活」を読む
結城浩さんのミニ文庫より。 note で購入できる。
以前の note は au WALLET をクレジットカードとして受け付けてくれずイライラしたが,最近は「au かんたん決済」の決済方法のひとつとして au WALLET が選べるようだ。 ブラボー!
現代日本では「老」という字には年齢に関するネガティブなイメージがあるが,「老練」とか「老成」という言葉が示す通り,「老」は本来歳をとることではない。
若いころは如何にして「老成」できるかを考えていた。 しかし具体的なイメージがつかめないまま四十路を迎える。 四十路を過ぎてもちっとも「不惑」にならないし,五十路も迎えた今になっても相変わらずフラフラしてて家族に呆れられる今日このごろである。
私が本格的に年齢による生物的な衰えを感じるようになったのは40代半ば辺りから。 やはり「記憶力の低下」が違和感の始まりである。 なんというか「もの忘れがひどくなる」というより「ものが覚えられない」のだ。 昔から人の顔や名前を覚えるのが苦手だったが,これが更にひどくなった。 好きな唄の旋律や歌詞がなかなか頭に定着しない。 標準ライブラリや API の関数名が出てこず何度もグーグル先生にお伺いを立てる。 マジでこの世にコンピュータやインターネットがなかったら私はどうなっていたんだろう。
あるいは若いころの思い出が変質する。 若いころに苦労したことはあまり思い出せなくなってきた。 それなりに苦労したはずだし悩みもしたはずだが「青春時代が夢なんて後からほのぼの想うもの」になってしまう。 若い世代特有の問題を議論する際に先行世代が口を挟むのはホンマに危険だ。 そういう意味で政治家は60歳過ぎたら次の選挙は遠慮すべきだと思う。
ここ2,3年は視力が低下した。 あきらかに老眼である。 老眼と遠視が異なるものだと初めて知った。 私は重度の乱視と近視なのだが,これに老眼が加わるとどこにもピントが合わなくなる(笑)
いいこともある。 物事に「時間をかける」ことが苦痛でなくなった。
若いうちはせっかちなものである。 できるだけ早く「結論」を得ようとする。 しかし,世の中は「不定解」や「不能解」のほうが圧倒的に多いのだ。 これまで「不定解」や「不能解」を避けて手近な近似解で満足していたのが,歳をとることで「不定解」や「不能解」についてもゆっくりゆっくり考えるようになる。
好きなこと・やりたいことにたっぷりの時間をかけ,さらにそこから何かしらを得る,というのは現代においてとても贅沢なことになっている。
歳をとるとだんだん「動かないもの」に興味を持つようになるのだそうだ。 たとえば若いころに「園芸」を趣味にしていた人が歳をとって「陶芸」に傾倒するようになり,そこからさらに「石」そのものに興味が向かっていく,とか。 私は園芸にも陶芸にも興味はないが,「動かないもの」に興味が向くようになるということは,それだけ好きなことに時間をかけれるようになるってことなのかもしれない。
地球上のあらゆる生命にとって時間とは命(寿命)そのものである。 その命を喰らって私たちは生きるのである。 それが「老いる」ということだと想う。