人工知能に「常識」は必要なのか?
「常識」は「知能(intelligence)」というより「知性(intellect)」に近い。 果たして人工知能(artificial intelligence)に「常識」は必要なのか。
機械と「トロッコ問題」
「トロッコ問題」については以前に言及した。
「トロッコ問題」のポイントは「正解が存在しない」ことにある。 ゆえにヒトは葛藤し(どちらを選んでも)後悔するのだ。
宗教臭い言い方をするなら葛藤は「罪」であり後悔は「罰」である。 社会的動物である私たちヒトは常に社会に対して罪と罰を背負わされ続ける。 一方で,(社会的に1)「公正」であり「正義」であると信じ切れるなら,それが自爆テロでも人類殲滅でも,罪と感じることはないだろう。
機械は葛藤も後悔もしない。 内部構造がどうであれ入力に対して必ず何らかの出力を行うよう定められている。 その意味で機械に「トロッコ問題」は存在しない。 言い方を変えるなら「葛藤や後悔は機械が負う責務ではない」ということだ。
人工知能に「常識」は必要なのか?
「常識」というのはヒトが社会的動物であることと密接な関係がある。 そもそも「公平かつ正当な判断」という考え方からしてそうだ。 「公平」も「公正」も社会の中でこそ意味を成す。
「常識」というのは社会に対する個人(identity)を固定するための基盤であり,同時に個人の想像力を制限する枷でもある。 人は想像を絶するものは想像できない。 その想像力の地平線こそが「常識」というやつである。
ならば問おう。 果たして人工知能に「常識」は必要なのか? と。 「常識」を刷り込まれ「想像を絶するものを想像できない」人工知能の価値とは如何ほどか。
ブックマーク
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社会的にというか「神の教えの下に」とでも言うべきか。 ↩︎