「読書感想文は、ただちに「面白かった本のお勧め文」に名目を変えるべき」ではない
はいはい。 小学生時代に学習参考書で読書感想文を書いて市のコンクールで優良賞をもらった私が通りますよ1。
結城浩さんの tweet で見かけたので。
なんでも Wikipedia には
などと書いてあって,それに対し
と返されている。
まぁ少子化の時代とはいえそれなりに沢山の子どもがいるので,中には息をするように上手い文章を書いたりできる奴とかいるわけだ。 そんで,コンクールってのはそういった上手い奴が集まって評点されるので,その中で評価者にとって耳障りのいい文章が高評価を得るのは寧ろ当然といえる。 権威はあっても意味がないものの典型だよね。 もしくは権威主義的? でも,だからといって最初から「耳障りのいい文章」を目指して書くのは本末転倒だと思うのですよ。
小学生にとって作文というのは自身の思考や感情を文章として(「面白い」とかいった主観表現ではなく)客観的・分析的・内省的に表現する訓練機会である。 これは思考が柔軟な子どものうちしかできないし,やらないと思春期以降に薄っぺらい人間になってしまう。 そして訓練なのだから上手い下手なんか比較的どうでもいいことと言える。 まぁ上手い文章が欲しいだけなら上手い文章を書ける奴に書かせればいいので,そういう取引も… 勉強のうちと言えるかもしれないが。
読書感想文を書くときのポイントはひとつしかない。
- それで「私」という 読者 はどう思ったか
である。 だって「感想」なんだから。
登場人物が何を言ったか思ったかとか,作者は何を意図してたかとか,原稿用紙の升目を埋める程度の意味しかない。 そもそも登場人物がどうたらとかそんな小手先のテクニックは小説やエッセイのときしか使えないぢゃんか。 小学生はビジネス書や技術解説書や論文等を読まないとでも思っているのか。 図鑑や事典の感想は書いちゃいけないのか。
どの本を読んでも何も思わなかった? じゃあそれを書けばいい。 「目が滑って文章が全く頭に入りませんでした」とか「読み始めて5分で眠ってしまいました」とか書けばいい。 何ならその本がいかにつまらなかったか延々と dis ってもいい(つまらないことをつまらないと書くこと程つまらないものはないけどね)。 それもその本を読んだ感想である。 クラス担任は怒るかもしれないが無視だ無視。
面白いと思った本を薦める文章を書く。 それは悪いことではない。 でも「感想」とは違う。
そもそも他者に薦めるという行為は他者とのコミュニケーションの中で相手との心理的距離を測りながら行うものだ。 それなら読書感想文ではなくディベートなどのディスカッションの場で養うべきものである。 不特定多数に対する推薦文とか子どもにはハードルが高すぎるだろう。 そういう行為自体が黒歴史になりかねん。
読書ってのは,その本を読んだだけでは完結しない。 課題図書を読ませて,読書感想文を書かせて,そこで試合終了,ならその読書は失敗である。 たとえその読書感想文がどれだけの絶賛を浴びようともだ。
よい読書ってのは常に次の行動への「起点(trigger)」となる。 たとえば,学習参考書を読んで通学路にある田んぼの稲の生育に興味を持つ子がいるかもしれない。 たとえば,郷土史料を読んで自分が住む土地の歴史を調べはじめる子がいるかもしれない。 たとえば,サッカー漫画を読んでいつかワールドカップに出場したいと願う子がいるかもしれない。 たとえば,抜群に面白い小説を読んで同じ作者の別作品を漁ったり同ジャンルの別作者の作品を読みたくなって挙句の果てに図書館に入り浸りになる子もいたりするかもしれない。
そういうのを全部ひっくるめて読書 体験 なのであり,その瞬間を切り取るのが読書感想文であり,そこに込められた想いをきちんと汲み取ってあげるのが大人の役割である。 私はそう思っている。
「読書感想文は読書体験の微分である」かな(笑)
ブックマーク
- 結城浩の連ツイ : 読書感想文の書き方について
参考図書
- 恋を積分すると愛 (角川文庫)
- 中村 航 (著)
- KADOKAWA 2017-07-25 (Release 2017-07-25)
- Kindle版
- B0741WVFFL (ASIN)
Facebook の友人が紹介してた。タイトルが面白そうなので読むかもしれない(笑)
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いや,当時の担任はホンマに肝が据わってたと思うよ。あんなのをコンクールに出すんだもん。いい先生でした。 ↩︎