「改憲」という要求開発
やぁ,選挙が終わりましたよ。 ようやくこれで胡乱なことが喋れるよ(笑) みんなよく選挙期間中に公衆空間で具体的な候補者を名指しでこき下ろしたり礼賛したりできるな。 私は選管や選管に密告するネットユーザが怖いので無理です。
さっそく頭のなかでトグロを巻いてる色々な雑念を Scrapbox に吐き出していく(外部記憶に書いて忘れるため)。 そこで半分無意識に書いた
を眺めていて(我ながら珍しいことを書くなぁ)ふと思いついた。
「これってコーランのことなんじゃね1?」
なんでこんな明後日の方向に思考が飛んだかというと,以下の記事を思い出したからだ。
正直な話,最初にこれを読んだときにはうまく脳に馴染まなかった。 ただ,この中で西欧(ギリシア哲学)的な思考とイスラーム教的な思考の違いが分かりやすく例示されている。
具体的には算数で「$1+1=\,?$」という問題と「$2$」という解答のセットがあるとする2。 そこで「$1+1$」について考察し解答である「$2$」を導き出すのが西欧的思考で,「$1+1=2$ である」を絶対として無条件に受け入れるのがイスラーム教的思考と考えればいいのだろうか(算数に関しては日本の学校教育は後者な気もするが3)。
実はコンピュータ・エンジニアも似たようなことをする。 それは TDD (Test-Driven Development) である。
TDD では先に「テスト」を書く。 つまり「問題と解答」のセットを先に作るのである。 そして入力した問題に対して必ず「正しい」解答が出力されるよう手順(algorithm)を記述するのがプログラミングである。
たとえば「20と32の最大公約数は4」を導く手順としては「ユークリッド互除法」が有名だが,なぜ「ユークリッド互除法」で最大公約数が解けるのかエンジニアは考えない4。 テストが要求する $gcd(20,32)=4$ を実装できることが重要なのである。 そもそも大抵の数学ライブラリに入ってるしね(笑)
現在の日本国憲法が日本人にとって「最後の憲法5」であるなら「改憲」議論そのものがナンセンスだろう。 実際そのように考えている政治家(やその支持者)は多そうだ。
憲法に関しては,私はそっちに与しないが。
たとえば,上で挙げた TDD は「テストは正しい」ことが必要条件である。 「テストは正しい」と信じられなければ,そもそも TDD は成立しないのだ。
エンジニアがアルゴリズム偏重になることについては苦言を呈する人もいる。
これは全くもってそのとおり。 エンジニアリングの世界ではこれを「要求定義」もしくはもう少し推し進めて「要求開発」と呼ぶ。
私たち日本人に日本国憲法を「最後の憲法」たらしめんとする圧力の源は何なのか。 そこから考え始めるべきではないのだろうか。 それも「要求開発」である。
ブックマーク
参考図書
- 要求開発~価値ある要求を導き出すプロセスとモデリング
- 山岸 耕二 (著), 安井 昌男 (著), 萩本 順三 (著), 河野 正幸 (著), 野田 伊佐夫 (著), 平鍋 健児 (著), 細川 努 (著), 依田 智夫 (著), [要求開発アライアンス] (著)
- 日経BP 2006-03-02
- 単行本
- 4822282686 (ASIN), 9784822282684 (EAN), 4822282686 (ISBN)
「要求定義」から「要求開発」へ
- いかにして問題をとくか
- G. ポリア (著), Polya,G. (原著), 賢信, 柿内 (翻訳)
- 丸善 1975-04-01
- 単行本
- 4621045938 (ASIN), 9784621045930 (EAN), 4621045938 (ISBN)
- 評価
数学書。というか問いの立てかたやものの考え方についての指南書。のようなものかな。
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いや,イスラーム教徒の方は怒らないでね。この手の「思考の横滑り」は私にはいつものことなので笑って許してください。私はエンジニアだけど,いつも論理的に考えているわけじゃあないんだよ。 ↩︎
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厳密には $1+1=2$ というのは「$1+1$ と $2$ は常に等しい」という意味の恒等式であるが,細かいことは言わないでおく。 ↩︎
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いや,さすがに現場のエンジニアは学生時代に一度くらいは「ユークリッドの互除法」を証明したことがあるだろけど。やったことないって人や忘れてしまった人は結城浩さんの「数学ガールの秘密ノート」の連載で「ユークリッドの互除法」が登場するので読むといいだろう。 ↩︎
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「イスラームの宗教と脳の機能は交差する。」には「最後」について「宗教的に画期的な「発明」」と書かれている: 「イスラーム教徒は「最後の預言者であるムハンマドに託された最後の啓示の言葉」としてコーランを認識することで、「最後の次」の啓示というものが出てくることを、単に認識しません。誰かがどれだけよく考え抜いて、現代のグローバル化した人類社会の新たな環境に適合した新たな啓示の法はこうだ、と新しい宗教を提示しても、コーランの内容と比べてその新しい宗教が優れているか否か、ということをイスラーム教徒の側は誰も論じません。論じる必然性を全く感じないからです」 ↩︎