「知られざる古代出雲—「光る君へ」の時代—」を聴講する

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さてさて。 4回シリーズの「島根の歴史文化講座 2024」も今日で最終講。 昨日はオープンソースラボだったし,今日は松江テルサで連日駅前に行ってるな(笑)

自転車はオーバーホールに出してるので公共交通機関で移動。 まずは松江テルサ2階にある一福で腹ごしらえ。

テルサ一福 舞茸天ぷら蕎麦セット | Flickr

ほんじゃあ行きますか。

知られざる古代出雲—「光る君へ」の時代—

第4講は古代といっても平安時代(794年〜1185年?1)。 それも摂関期(9世紀後半〜11世紀中頃)の話である。

「光る君へ」とはもちろん某 NHK の大河ドラマを指している。 といっても私はアナログ停波前後から大河ドラマは見なくなったので「光る君へ」もどういうストーリーなのか知らなかったのだが,どうやら紫式部の一代記で,すばり摂関期の話らしい。 私はこの辺の時代の出雲は全く知らないので聴いていてとても面白かった。

以下は覚え書きとして記しておく。

受領人事

中央から任期付きで任命される国司は,平安時代に入ると中央から派遣される受領(基本は守)に権力が集中するようになる2。 といっても受領が専横的に地方統治していたわけではなく「受領功過定」というのがあって中央の公卿による勤務成績を判定する会議があるそうな(満場一致するまで審査・議論するらしい)。 つまり都にいる上級貴族は,物語のように優雅に暮らしているわけではなく,受領功過定を通じて地方行政にも関与していたわけだ。

まぁ,摂関期で政治的なパワーバランスも偏ってるので色々と忖度も働くわけだが,受領功過定に際してその土地の百姓による訴え(百姓愁訴)なんかも届いたりして何ヶ月も揉めることもあったらしい。 結果的に受領は地方有力者(任用国司・郡司・書生)と協調して地方統治のバランスを執らざるを得ないわけだ。

出雲に関連する話でいうと,『小右記』や『左経記』に出てくる記述で,長元4年(1031年)に杵築社(出雲大社)が倒壊する話がある。 当時の杵築社は「雲太3」と評されるほど有名で「こりゃあ何かの前触れとちゃうん?」と陰陽師による占いなんかもして結構な騒ぎになったらしい。 ここで「出雲杵築明神託宣の中に、改元すべき事有り」とかいう話も出てきて,当時の後一条天皇の進退にまで関わる大騒ぎになった。 これに乗じて出雲の受領は,杵築社の建て直しをする代わりに「受領の重任(任期の延長)」「4年分の税免除」「杵築社の造立に但馬・伯耆の工夫を使うこと(利権誘導?)」などを求めたとか。

結局,杵築社の託宣は受領による虚言だったらしく,他の国司および社司等による証言でバレて受領は佐渡に島流しになったそうな。 欲をかくから…

ここでいう「他の国司」ってのは中央から派遣された受領以外の地元有力者から選ばれる任用国司を指す。 少なくとも出雲では摂関期においても地方有力者から選ばれる任用国司がちゃんと機能していたようで,中央に対してそれだけ出雲および杵築社の影響が大きかったことが推測できる。

東アジア交流と「国風文化」

私が子供の頃は(等の滅亡に伴う)遣唐使の廃止により大陸との交流が閉ざされ,かわりに「国風文化」が花開いた,みたいなことを習った覚えがある(今の教科書がどうなってるか知らない)。 しかし実際には海商(9〜11世紀)や渤海使4(8〜9世紀)による交流はむしろ活発化していて決して「閉ざされ」ていたわけではない。

特に大宰府に派遣される官吏は交易で随分儲かったようで,任期終了後その財を持ち帰って中央で出世するみたいな話もあったらしい。 『小右記』には,これを指して「近代は富人を以て賢者となす」と皮肉る記述があるそうな。 古今東西,金持ちのやることは変わらんっちうことかねぇ。 某マスク氏のことだとか言わないよ(笑)

こうなると「国風文化」ってなんなん? ってことになる。 この辺の文化背景については改めて見直されているそうな。

私個人の意見で恐縮だが,記紀に対する妙ちきりんな解釈(これは戦後に否定されている)もそうだけど明治維新以来の過剰なナショナリズムはそこかしこに傷跡を残しているのかも知れない。

余談だが,最後の遣唐使に選ばれた(けど結局行かなかった)菅原道真は最後には政変に巻き込まれ大宰府に左遷させられたけど,現地では俸給も従者も与えられず政務に関わることも禁じられたらしい。 これでは「儲かる」どころか衣食住もままならないわけで,そのまま薨去したという話だ。 そりゃあ怨霊にもなるか。

出雲と清少納言

余談めいた話。

花山法皇に矢を射かけたとして出雲権守に左遷させられた藤原隆家は道隆の子で一条天皇中宮定子の弟である。 実際には隆家は左遷先の出雲に着く前に許されて帰京している。

この定子に仕えていたのが清少納言。 紫式部のライバルだね(笑)

清少納言の『枕草子』には温泉に関する記述があって「湯は ななくりの湯 ありまの湯 たまつくりの湯」と記している。 「出雲風土記」には玉造温泉に関する記述があるが,平安時代には都でも既に知られてたってことのようだ。

個人的にはくずしろさんの『姫のためなら死ねる』が好きなので(紫式部より)清少納言の方に思い入れがあるんだよなぁ。

「光る君」よりこれをアニメ化またはドラマ化すべきだろう(笑)

平安時代の「日記」は面白い(らしい)

今回の講座の資料には藤原道長『御堂関白記』,藤原実資『小右記』,源経頼『左経記』の記述が多く引用されていた。 古代の史料においては記紀が為政者の思惑が大きく反映された「神話」が多く含まれる説話的な内容に偏ってる(故に史実の上澄みを掬い取るのが大変な)のに対し,これらの「日記」はほぼ同時期の複数人物の視点を突き合わせて検討できる点が秀逸である。

そういえば『土佐日記』について「ネカマによるブログの原型」みたいな評価があったが(笑),上に挙げた日記は個人的な diary というよりは公の出来事を記述した log や journal に近い内容と言える。 まさに「ブログの原型」だな。 それ故に史料的価値が高い。

たとえば藤原道長『御堂関白記』の記述にはクセがあって,地名の「加賀」を「賀加」と書いたり「出雲」を「雲出」と書いたりしてるらしい。 昭和時代のギョーカイ用語か! みたいなツッコミがあって笑ってしまった。 こういうのもブログっぽいよね。 平安時代の「日記」のほうが元祖だけど。 日本人ってのは昔からやってることが変わらないのだろう。

というわけで,平安時代を知るには日記を読めと勧められた。

参考

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古代出雲の氏族と社会 (47) (同成社古代史選書 47)
武廣 亮平 (著)
同成社 2024-03-11
単行本
4886219454 (ASIN), 9784886219459 (EAN), 4886219454 (ISBN)
評価     

島根の歴史文化講座 2024」で講師をされた武廣亮平さんの著作。興味本位で買うには躊躇するお値段だし地元の県立図書館でも借りれるが,じっくり読みたいので買ってみた。著者の過去の論文を再構成した内容。記紀などの史料や過去の研究者の膨大な文献を整理した上で古代出雲についての考察を行う。

reviewed by Spiegel on 2024-11-26 (powered by PA-APIv5)

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姫のためなら死ねる (1) (バンブーコミックス WINセレクション)
くずしろ (著)
竹書房 2011-05-07 (Release 2014-03-07)
Kindle版
B00IOGFPBG (ASIN)
評価     

変態 清少納言を中心としたコメディ平安史(笑) 読んでるとこっちのほうが正史では?とか思ってしまう(笑)

reviewed by Spiegel on 2015-01-11 (powered by PA-APIv5)


  1. 私が子供の頃は源頼朝が征夷大将軍に就任した1192年を鎌倉幕府の始まりと習ったのだが,近年は守護・地頭の設置・任命権を与えられた(というか当時の後白河天皇から強奪?した)1185年を鎌倉幕府の始まりとすべきという説が有力らしく,学校の教科書もそうなってるそうな。実は他にも1180年説,1183年説,1184年説とかあるらしい。1192年は武士(軍人)としての最高位を授かった時点を始まりとしていて1185年は政治的な実権を握った時点を始まりとしてるってことかな。 ↩︎

  2. 最初の頃の国司( (かみ) (すけ) (じょう) (さかん) )はお互いが同僚関係で「共治」原則だったらしい。 ↩︎

  3. 公卿の子供のための教科書?『口遊 (くちずさみ) 』に高い建物の数え歌として「雲太 (うんた) 和二 (わに) 京三 (きょうさん) 」という表現が出てくる。いちばん高い杵築社が雲太で,次が和二の東大寺大仏殿,京三は京都の大極殿なんだそうな。つまり,平安当時から出雲大社はそのくらい有名で,それが倒壊するのは(今で言うなら東京スカイツリーが倒れたレベルの)本当に大事件だったわけだ。 ↩︎

  4. 渤海使 (ぼっかいし) は朝鮮半島より北の大陸東北部の渤海 (ぼっかい) と呼ばれる地域から主に日本海側の北陸から山陰にかけて来着していた集団。「使」と付いているが日本側は商人集団(商旅)と認識していたらしい。朝鮮半島の新羅の弱体化に伴い日本海を横断するルートで日本に来るようになったそうな。特に山陰に来るルートでは隠岐の島がランドマークとして機能していたとか。これに関して『日本後紀』にオカルトめいた記述がある(笑) ↩︎