あの世に本は持っていけない

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SNS で見かけた以下の記事が面白かった。 前後編に分かれている。

これらの記事が何時まで残ってるか分からないので Kagi Assistant に要約させてみた(鵜呑みにしないように)。

記事1(約2万冊の大半が「ゴミ」に…知の怪人・荒俣宏が蔵書を処分して感じたこと)

  • 引っ越し(30年住んだ戸建て→マンション)に伴い約2万冊の蔵書を処分する決意を固めた経緯を述べる記事です。
  • 手元に残したのは本棚3つに収まる約500冊のみで、稀覯本でさえ「ゴミ」とされて運ばれていった経験を描写しています。
  • 昨年の重病(蜂窩織炎で入院)を機に「身辺整理」を真剣に考えるようになり、遺された家族への負担を避けるために自ら処分を進めたという背景があります。
  • 蒐集家としての矛盾や、収集物の処分がもたらす精神的な痛み(「精神的な『死』」)が主要なテーマです。

記事2(続編:最後の1万冊は「産廃業者のトラック」が持って行った…蔵書2万冊を処分しきるまで)

  • 実際の処分の最後の過程(例えば、最終的に約1万冊が産業廃棄業者のトラックで運ばれたこと)など、処分の現場や具体的事実を中心に報告しています。
  • 公共図書館などでも受け取れない貴重本がある現状を批判し、紙の本の扱いや寄贈・受け皿の問題点を指摘しています。
  • AIの普及などで「即時性」や実用性が重視される時代に対して、荒俣氏は個人の蓄積した知識や先人が示した「抵抗の精神」の重要性を強調しています。
  • 勝敗や流行にとらわれない、時代を超えた価値を見出す姿勢の大切さを語り、処分を通してそうした考えを再確認したという内容です。

荒俣宏さんのコレクションの規模や希少性には遠く及ばないが,私も2015年2018年の2回に渡って本を処分している。 今住んでいるところには本棚2つに数百冊しか紙の本を持っていない。 一方で,この前確認したら Kindle 本は三千冊を超えていた。 まぁ Kindle で買うような本は漫画かラノベがほとんどなんだけど。 近年,技術参考書などは PDF 版を買うことが多い。 PDF 本も(数えてないが)そこそこある。 「自炊」はしてない。

2回の処分でこれまでの三十数年の「私」を否定された気分になったのは確かだ。 そして,そういう感情を抱いたことに自分で驚いた。 でも,その後に思ったのは「あの世に本は持っていけない」である。 荒俣宏さんほどの蒐集家のコレクションでさえ(半分しか)受け継ぐ相手はいなかったのだ。 その辺の小僧が三十数年の間に買った市販本を欲しい人などいないだろう(ブックオフに引き取ってもらえればマシなほう)。

Kindle のような「所有できない本」の問題点は私も認識している。 世情が変わりサービスによって発禁になった本は簡単に「なかったこと」にされる(返金さえされない)。 サービスが終われば,その幻の資産は消滅する。 まぁ,紙の本だって焚書されたりするんだけどね。 だからといって「私」が散逸しそうなそれらを保護する義理はないし継承する相手もいない。

図書館や博物館・美術館といったところは無制限にマテリアルを収集しているわけではなく,それぞれ何らかのコンセプトを持って運営している。 それは公共施設でも同じ。 図書館なんだから本は何でも引き取れ,とはいかないだろう。 それが無料の寄贈であっても。

蔵書2万という規模だけ見れば十分に私設図書館を開けるレベルだ1。 荒俣宏さんが全盛期にどれほど稼いでおられたかは知らないが,それすら難しいということだったのだろう。 現在進行形で国内の市販本を溜め込み続ける国会図書館はホンマに凄いと思うよ。 ボルヘスの「バベルの図書館」みたいなのは,それこそ幻想ってことだ。

あの世に本は持っていけない。 本以外のものも。

私達は社会に生きる動物なのだから(何を彼岸に持っていくかではなく)何を此岸に残せるか,が重要。 それこそが「社会」の中の「個」としてのアイデンティティなんじゃないかと思ったりする。

荒俣宏さんは八十路手前で死にかけた経験をされたそうで,身辺整理を意識するのも無理からぬことではあろうけど,本当は身辺整理なんて最後の最後にできればラッキーくらいで丁度いいと思う。 だってまだ生きてるんだから。


  1. 島根県の図書館 蔵書数ランキング」ってのを見かけたが,小さな市町だと1万〜2万冊程度の規模の図書館も結構あるようだ。まぁ,蔵書数だけが図書館の評価軸ではないけどね。維持するだけでも大変だし。 ↩︎