命のリスク・トレードオフ

no extension

久しぶりに11年前に書いてた自ブログ記事を眺めていたが「日本学術学会は原発に批判的?」に

リスクにおける「基準値」はリスク評価に対して特定の条件を加えたもので,その条件は政治的な判断にならざるをえない場合が多い。 放射線量の基準値が平時と有事で異なるのはそのためだ。 リスクは系全体で最小となるようにマネジメントされなければならない。 だから「条件」を巡って議論が起きるのは不思議なことではない。 ただ傍で見てて「それって科学なの?」という思いはあるけど

という記述を見つけて「日本てば10年経っても何も進歩しなかったんだな」と暗澹たる気持ちになった。 もちろん「コロナ」の話だよ。

リスクに関して細かい話は色々あるが,大雑把には

  1. リスクは定量評価である
  2. リスクはリスクとしかトレードオフできない
  3. リスクは系全体で最小(ゼロではない)となるようマネジメントされなければならない

といった辺りが重要である。

たとえば疾病関連のリスクは基本的には「損失余命リスク」で評価する。 これ自体は妥当だと思う。 問題は疾病関連リスクしか見ないことにある。 たとえば社会的な経済活動が減退して困窮したり絶望したりする人が増えれば,これまもた「損失余命リスク」と言える。 つまり,感染症の大規模感染を抑える行動とそれによる経済活動の減退とのトレードオフは「損失余命リスク」評価の下に議論することもできる。

でも実際には,あるリスクを減らすための行動を他のリスクと絡めて考えている人は(専門家も含めて)少ないように見える。 大抵は自分の主張に都合のいいリスクに対しては声高に叫ぶが,リスク間のトレードオフについては口を閉ざす。 これでは正しい「政治判断」はできないのではないか。 浪花節で社会は回らない。

お金は大事だし,実のところリスクはお金(の量)に換算できる。 身も蓋もないことを言えば感染症リスクも不況の影響もお金持ちなら解決できる。 でも,政治決断としてリスクに対してお金を出すのなら(社会全体で)きちんと抑制効果が出るものでなければ意味がない。 考えなしにお金やポイント・クーポン券をばら撒くのはただの政治腐敗である。

それとも「不況だからマイナポイントをばら撒く」というのが令和時代のトレンドなのだろうか。