追従の時代?

no extension

今回も SNS の自 TL に流れてきたネタから。

先日,生成 AI サービスの「追従 (ついしょう) 1」性についての論文を紹介したばっかりなので「タイムリーだなぁ」と思いつつ読んだ。

最初に「いつも以上に私の感覚の話」とことわった上で

というのも、ソーシャルメディアの時代で話題になるためには共感される必要があって、世の中の流れに逆らいながら共感を得るのは非効率である。すでに知名度のある有名人が、俺はちょっと世の中と違う意見があるのだけど~みたいに言うなら、まだ人は耳を傾けるかもしれないが(それも今やリスクのある行為だが)、知名度のない一般人が逆張りしても、もはや誰も見向きもしない。

だから今日では、みんなが褒めているものは別の角度から改めて褒め、みんなが叩いているものは別の角度から改めて叩くというのが、効率的に共感と話題を集める方法になった。逆張りの時代から追従の時代になったと言っても良い。

と書かれている。

もう15年以上前になるが Facebook とかで “like!” ボタンが登場したあたり2 に出た

likeには「好き」という意味の他にもhowとの組み合わせで「それについてどう思うか」という意味もあります。たとえば、お母さんが子供に”How do you like school?”と聞く場合、それは「学校は好きか?」ではなく「学校はどう?」になります。これは肯定的な意見も否定的な意見も両方込みで質問しています。 ”How do you like it?”は「どうだった?」、です。

likeボタンを押す、という行為は、その文章なり画像なり動画なりに「興味がある」ことを意味します。それは必ずしも肯定的意見とは限らないかもしれません。なので、その対象物に「いいね!」と評価していないケースもあり得るのです。

[…]

likeボタンは「対象の良し悪し」を判断する一歩手前の段階、「その対象に興味がある」状態を抽出することができます。とある記事のlikeが500の場合、その記事に「興味を持った人」が少なくとも500人いる状態になります。けれども、likeには日本語の「いいね!」の意味も含まれているので、それが高評価されているようにも見える。評価が上がれば人の目に触れる機会も増えるので、良い循環を創り出すことができます。 likeボタンは読み手が倫理的価値判断を行う前にレイヤーを一層追加することに成功しているように見えます。

というのがあった(元記事は Internet Archive にも残ってないのだが)。 これを読んで以来,私は「関心がある」という意味で「いいね!」を付けるようになった,それがサムズアップでもハートでも星でも。 引用にもあるように,“like” には潜在的に好意も含んでいるため,見かけ上は対象に対して高評価が集まっているように見える構造が面白いと思ったものである。

ところが今では「いいね」は追従の表明として使われているのではないかという考察には妙な説得力がある。

強者に媚びへつらう「追従」は弱者の典型的な(敗者にならないための)戦略のひとつである。 それが社会倫理的に正しいか否かは別にして。 でも「ソーシャルメディア3」における「追従」は,媚びへつらう対象としての強者がいないことも多いんじゃないだろうか。 むしろ強者はちょっとしたことでヘイトを買うことのほうが多いような。 強者なき追従は集団の「いじめ(harassment)」でもよく見られる構造だな。

これってもはや「社会」ではなく「群体」では? エヴァンゲリオンの「人類補完計画」みたいだな。 すると「ソーシャルメディア」は完全な(単体としての)人類を生み出すための器だな。

ここまで考えてふと思ったのだが,これからは「いいね」じゃなくて「おべっか」と改名したらどうだろう。 そうしたらコミュニケーションにおける「見える化」が進むんじゃないかと思うのだが(笑)


  1. 「追従」は英語で言う “sycophancy” の文脈では「ついしょう」と読むことがあるそうな。 ↩︎

  2. Facebook に “like!” ボタンが付いたのは2009年2月かららしい。 ↩︎

  3. 今どきはむしろパラソーシャル(parasocial)メディアと言うべきかもしれないが。 ↩︎